bnkosyouのブログ

表記された言葉の奥にあるもの//言い終えて何かあるか、俳句は詩、ということを忘れている人は多い

季語をとったら残るのは何語ですか


飯田龍太全集・拝論・拝話Ⅰ・角川学芸出版

「文芸広場」(昭和五九年十二月号)の対談の中で、詩人の田中克己氏が「俳句の方は全くやりませんか」という問いに対し、
田中「はい。だって季語をとったら残るのは何語です。
やはり第二芸術ですね。
第二芸術とは、自らの独自性を忘れて他を模倣し、追随に甘んじたものの謂であろうと思う。
独自性ある俳句とは、俳句だからこそいいえたのだ、としみじみ痛感させる作品のこと。
(「毎日新聞」昭和六十年一月十二日)飯田龍太

―――*―――
1・湖や暑さを惜しむ雲の峰芭蕉
・立枯の木に蝉なきて雲のみね・蕪村
3・雲の峰白帆南にむらがれり正岡子規
4・雲の峰八方焦土とはなりぬ加藤楸邨
5・うしろより月日蹤きくる雲の峰飯田龍太
6・雲の峰一人の家を一人発ち・岡本 眸
7・東京が好きで離れず雲の峰・鈴木榮子
8・一病を得て息災や雲の峰角川春樹
9・雲の峰四方に涯なき印度洋・山本暁鐘
10・雲の峰一瞬にしてみな遺品・櫂 未知子
田中克己さん、彼方は俳句の読みを訓練する必要があります、確かに季語をぬいたら「何語」と思われるのは頷けます、でも、俳句は季語を詠う物です。
上掲十句は同じ季語です。
彼方は芭蕉も蕪村も子規も無視したことになる。
知らないということは斯くも恐ろしいことなのですね。

「一人の家を一人発ち」
「一瞬にしてみな遺品」
なんじゃこれ?ですよね。
でも、季語をはめれば、田中克己さんなど、足元にも及ばないですよ。
足元にも及ばないというのは、これだけの短い言葉で、これだけの多くのことが言える、ということです。
・―――・
1、夏惜しむ、冬惜しむ、という季語はない、芭蕉は暑さを惜しむ、と言っている。
上五、「や」で切っている。
暑さを惜しんでいるのは雲の嶺、日中の炎暑から、夕方、湖面を渡ってくる涼風、時間の経過、当然、句の中の芭蕉を消すことはできない。
4、焦土、戦争で焦土に成り果ててしまった。
「とは」が分からない。
5、雲の嶺を見て過去を思い出している。
7、ビルの谷間から見る雲の峰、なんとも味気ない、でも東京が好き、そのギャップ。
8、俳句を、十年もやっていれば誰でも、そこそこに詠めるようになる。(春樹)これは、そこそこの句。
「売れ残りたる風船に空がある」春樹
そこそこの句ではない。
9、「に」は無駄なつなぎの助詞ではない、と思う。
「しほう」は、二音で読めばいい。
10、重篤でも息していれば遺品ではない。
あっ、今お父さん逝った。