bnkosyouのブログ

表記された言葉の奥にあるもの//言い終えて何かあるか、俳句は詩、ということを忘れている人は多い

私の選が絶対だというやり方もあります。

日焼けなき腕時計痕へ腕時計池田澄子
意味なんて何もない、理屈もない、俳句は意味を言うものではない、理屈もダメ。
掲句は、澄子の句、澄子の創作。

鵙猛る食はずに贄にしてしまうーbn
池田澄子選・角川平成俳壇・佳作
見栄っぱりの鵙もいる、本当は食いたかった。
贄にしてしまった、鵙は後悔しているかも知れない。
空腹の鵙贄とするのもならひかないーbn・未発表。
七/七五の字余り。

飯田龍太
皆さん例会以外にもそれぞれの句会に所属しておられると思うんですが、そういう方への力の入れ方がどうも少し弱まっているのではないかと思う。
なかには自分たちの句会で最高得点で、しかも指導者が絶賛したというのでいい気持ちで、「雲母」(きらら)へ出したら没だった(笑)、こういう場合、私としては恐縮せざるをえないんだけれど、それとは逆に誰も採らなかった、採らないだけでなく随分悪評を被ったが、「雲母」へ出したら入選のみならず言葉を極めて褒めてあった、どうも俺たちの会の連中はレベルが低いなんて(笑)早合点される方もある。

これは、結社の秩序としては、評価の基準、具体的にいえば「雲母」だったら
私の選が絶対だというやり方もあります。
それはある秩序としては良いかも知れない。
しかしそれは非常に大きな欠陥もあるということです。
選というものに絶対ということはあり得ません。
例えば私自身の場合でも十年前の選と今日の選では、おのずから違うとおもうんです。
・・・・中略。
結局撰者というものは、自分の我を通すということなんです。
・・・略
したがって繰り返しますが、選というものは常に参考ということ、これを深く肝に銘じておいて間違いないと思うんです。
参考になることは確かです。
だからわたしは、こういう席上で人の選にはかなり興味を持っています。
関心をもって聞き澄ましています。
むろんそれには自分の採らなかった作品に対する関心もありますし、もう一つは、選した人の作品と選句との落差といいますか、そういう個々にたいする興味もあるんです。
(俳句入門三十三講・・飯田龍太)_講談社