bnkosyouのブログ

表記された言葉の奥にあるもの//言い終えて何かあるか、俳句は詩、ということを忘れている人は多い

ちょっと一休み・鑑賞を越える句・飯田龍太の雑観を引用


俳句の評を読むと、ときどき珍妙なのが出てくる。
たとえば「雪起こし」(冬の雷のこと)を雪おこし、と仮名書きしたために、雷おこしの親類筋のような解釈したり、「雁渡し」(雁くるころの北風)を雁渡ると同義にかいしたり。
まあしかし、これらの季語は元来が方言だから、多分専門的な知識を必要とするが、一番こまるのは植物名。
その代表的なのは、「壺の花をみなめしよりほかはしらず」安住 敦
という句。
「をみなめし」は、「女郎花」のこと。
「をみなへし」のなまりである。
ところがこれを、「女飯よりほかは知らず」と読み取ってしまった。
また、鴨足草のことを「雪の下」という。
表現の細かいところは忘れたが、辺りに水の音がするという内容の旅吟であった。
これは作者も評者も共に著名なひとで、これを雪の下を流れる水の音と解して絶賛してしまった。
なるほどそうとも取れる表現であり、しかも前句と違って、これなら季節もはっきりする。
ただし、夏の旅が冬の旅になってしまった。
結局評者が誤りを素直に認めて一件落着。
似たようなことは、「風車」という鑑賞用の蔓草や、「破れ傘」という山中の湿地に自生する野草などの場合もしばしばおこる。
こんな例をあげればキリがないし、そういう私自身たいへんな誤りを犯した経験がなんべんとなくあるけれども、いちばんやっかいな句は、表現は平明、したがって解釈上どこもとまどうところはないが、さて鑑賞となると、なんと表現したらいいか口ごもってしまう、そういう秀句である。
たとえば、
「六月や峰に雲置(おく)あらし山」_芭蕉
芭蕉最晩年の、嵯峨落柿舎での作。
落柿舎は愛弟子向井去来の別墅(べっしょう)であるから、多くのひとが指摘するように、この句の背景には去来への挨拶である。
いい住居だね、というかわりに眼前の
壮大な眺めを把えて親愛の思いに変えた。
なるほどそれも作品鑑賞の大事なかなめにちがいないが、しかしそれ以上この句についていろいろ述べたててみても、所詮作品の大きさ、鮮烈さ、ないしは豪快さにはおよばぬことになる。
これより更に厄介な句は、同じ年の、
「この秋は何で年よる雲に鳥」だろう。
つまり、天才とは、そういう途方もない力を持った作品を幾つか示したひとの謂ではないかと思う。
龍太。