独創句は強い
囀りや三羽となりて派閥なる
小姓
人も二人になれば力関係が発生する。
烈風の枝を歩いて烏の子
小西雅子
どの針もあはき影持ち針供養
辻 美奈子
言われてみれば「針」にも影はある、でも、それを見たものはいないでしょう
雪の被害に会われたみなさまにお見舞い申し上げます
信州の豪雪地帯に生まれ、晩年を過ごした一茶に「雪」の句が多い。
これがまあ終の住処か雪五尺一茶
住処(すみか)―住家は当て字。
「これがまあ死に処かよ雪五尺」
雪を好んで詠む一方で、雪への恨み言めいた句もある。
雪行け行け都のたはけ待おらん
雪のおそろしさを知らず、雪を風情あるものと喜んでいる江戸の「たわけ者」のところに雪が降ればいいと言っている
たたずめばなお降る雪の夜道かな
高井 几董
高井 几董(たかい きとう、 (1741年) (1789年)は、 江戸時代 中期の 俳諧師。
一般的に言って「・・・・すれば」で起こされた句は、犬が歩けば捧に当たる
という、因果関係を明らかにしただけの句になる。
しかしこの句ではこの「たたずめば」が肝要だ。
この句には時間の構造がある。
降りしきる雪を時間でくぎってみたのだ。
「たたずめば」で雪の時間をきったのだ。
時間のその断面で雪を見直し、勢いの衰えないことを確かめたのだ。
この句では時間の構造が重要なのだ。
今の時代、真の闇は無い、雪明かりなんてものは、反射する光があってのもの。
江戸時代の雪の夜道は、全盲と同じ。
素人が吹雪の中に出てゆくと
櫂 未知子
古典俳句(1539,40・・)
元朝の見る物にせん富士の山
山崎宗鑑(やまざきそうかん)(1539,40・・)生年不肖。
もちろん、この時代にテレビなどない、僕が知る限り、この句が一番古い句だと思う。
松尾芭蕉は1644~1694年
(せん「他に先んじての意」)
今の時代で元日の朝、富士山は何処のテレビでもながされている。
句意は、何ら説明の必要もない明瞭。
その分、単調で俳諧味はない。
同時代の句を幾つか拾っておきます。
月に柄をさしたらばよき団(うちわ)哉
さむきとも火になあたりそ雪仏
青柳(あおやぎ)のまゆかく岸のひたい哉
柳を眉に、岸を額にたとえておもしろがっている。
落花枝(らっかし)にかへると見れば胡蝶哉
夏の夜は明くるどあかぬまぶた哉
駄洒落の句ではあるが、これが当時の常套的な作風だった。
プレバトの、夏井いつき先生なら眉をひそめる。
姿を正す
炊飯器に寒あけの水容れにけり
「炊飯器」―名詞につなぎの助詞‘に‘はいらない。
本年もよろしく