俳句は難しいからこそ止められない。
『われは海の子』
我は海の子 白波の
さわぐいそべの松原に
煙たなびくとまやこそ
我がなつかしき住家なれ
木曽川の今こそ光れ渡り鳥
虚子の代表作の一つ。
木曽川はことあるごとに、遊び親しんだ川であるから僕には特に心に沁みる句である。
*
大空に健気に渡る小鳥の群れへの礼賛がこの木曽川への呼びかけとなったのだ。
木曽川よ、いまこそ光って小鳥の群れを見送ってやれというのである。
(「虚子秀句鑑賞」昭和三十四年・角川親書・116ページ)
―*―
これ↑は間違いです。
「今こそ光れ」の「こそ」は、強意の係助詞です。
「今光る」の「今」を、「こそ」で強めたんです。
だから四段活用動詞「光る」は、終止形ではなく、已然形(いぜんけい)「光れ」になったのです。
したがって「今こそ光れ」の現代語訳は「今こそ光る」なんです。
「今こそ光れ」という表現の中に、「今こそ光って見送ってやれ」という、命令・呼びかけのニュアンスは含まれていないんです。
中岡毅雄
*
里山の雪深ければこそ登る
小姓
読み解けなければ創れない
十能も炭斗もなき空気かな
(じゅうのうもすみとりもなきくうきかな)
四方万里子
鑑賞のポイントは空気
一流俳人の技
妻いつもわれに幼し吹雪く夜も
京極杞陽
「も」がだめ。
と言う人は多いと思う。
「も」、は杞陽らしい、杞陽しか使わない、と言いきってもいい。
尚毅は一番好きな俳人
雨の音は高くなったり低くなったりする・雨の音は雨自身持っている音ではない
音が無くても雨は存在する。
雨よ・音で自己主張しなくてもよい。
冬ざれや覗けば深き水たまり
岸本尚毅
(冬ざれ)冬になって草木が荒れ、山野、湖沼など一面の景色が蕭然としているさまをいう(歳時記)
水たまりって、覗く物なのかな。
覗かなければ深くない、そもそも水たまりなどない。
人は、触れられたくないことは誰でもある。
その辺りに読み解くカギがあるのかも知れない。
出来ているけど?・・類想の有無は確認できない
対談 池田澄子 大木あまり
-時を超えて通じ合う-
*理想の俳句を追い求めて*
大木 レンブラントやセザンヌとか、画家って死んでから有名になるでしょ?
私、小さい頃からそういう伝記を読んでいて、
芸術家は不幸なのが当たり前だと思っていた。
そして表現者は栄光の一番遠いところにいるものだと思うの。
例え自己満足でもいいから俳句に執していけばなんとかなるんじゃないかな。
池田 作品は鑑賞者があって作品になるんですよね。
私、どうして句集を作るかと考えると、
ひょっとしたら百年後の人が読んでくれるかもしれない、と思って作るのね。
今、どういう風に見られたいとか、褒められたいとかそういうことは考えない。
きれすぎたフックラインや雁渡る
小姓