bnkosyouのブログ

表記された言葉の奥にあるもの//言い終えて何かあるか、俳句は詩、ということを忘れている人は多い

 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

         人生は受容であって・戦いではない。

                       長田 弘

         

  長田 (おさだ ひろし、1939年11月10日 - 2015年5月3日[1])は、日本、 児童文学作家文芸評論家翻訳家随筆家

 

               弘の言葉を解釈すれば。

              人生は戦うことではない。

            人生は最前線を歩むことではない。

        激しい言葉を返されてイライラするな、すれば戦だ。

 

     しかし、仮想敵国が核をバックに威嚇してきても受容出来るか?

          詩人を殺すには理屈をもって来ればいい。

 

🤣虎ゃオオカミは愚痴は言わない。

 

 

  😃貴方が原因となって、貴方以外の人に苦しい思いを、させる、ということがないように。

新型コロナウイルスのことではない、あれは努力して防げるものではない。

     人に愚痴など言うな、聞く方は不快。

でも、愚痴を聞いてもらうとスッキリする、👩人間って脆いもの。

「けさのことば」岡井 隆

中日春愁

2020年7月14日 05時00分 (7月14日 05時01分更新)

 少年が学校から帰り、自分の部屋をガラッと開けると、見知らぬ老人が布団を敷いて昼寝をしていた。

不条理芝居の滑り出しみたいだが、実話である。

少年の部屋で寝ていたのは歌人斎藤茂吉

父親が茂吉の結社「アララギ」の会員だった関係から家に寄ったのだろう。

「おお君の部屋を借りたよ」。

そう声を掛けられた少年はやがて歌人となり、戦後の短歌界をけん引する。

歌人岡井隆さんが亡くなった。

九十二歳。名古屋出身。

あの少年である。

大戦後、短歌は危機にあった。

敗戦のショックが大きかったのだろう。

短歌ではなく別の方向に進まなければ日本は文化的に生き残れないのではないか。

日本伝統の短詩型そのものを否定する意見もあった。

岡井さん、塚本邦雄寺山修司が担った前衛短歌運動とは短歌滅亡論への疑問と反抗だった。

実験的な比喩表現や虚構性。

短歌の新たな可能性を模索し続けた。歌壇には「前衛狩り」の風潮もあったが、結果として岡井さんたちの試みは混乱期の短歌を救ったと言える。

<海こえてかなしき婚をあせりたる権力のやわらかき部分見ゆ>。かなしき婚とは一九六〇年の日米安保改定だろう。

歌の強さ、鋭さは後の世代から見てもまぶしい。

本紙ではコラム「けさのことば」を長く連載していただいた。

愉(たの)しみの半面、博識と内容の深さに、同じコラム書きは毎度ため息をついた。

中日新聞春秋・コラム蘭)より、全文引用。

 

僕の家は祖父の代から、百年以上中日新聞の前身、名古屋タイムズからの購読者だ、全文引用、何か、文句あるきゃあも?。

時間がなくて新聞、読まない時があった、でも、「けさのことば」だけは欠かしたことなく読んだ。

あるものをよく描くためには、それから眼を離して見つめねばならぬ。

『ジッドの日記Ⅰ』(新庄嘉章訳)

アンドレ・ジッド

ジッドは自分の小説を批評する人に対してこんな注文をだしている。

対象に眼を近づけるのではなく少し離れて「見つめる」のがいいのだ、と。

離れると周辺が見えてきて対象と周囲との関係がみえてくるというのだろう。

実はなかなか難しい凝視なのだ。

「けさのことば」

 

岡井隆の「今朝の言葉」の「ファイル」を作って心に感じたことは保存してある。

日付けを記していなかった、2014年で「けさのことば」は終わっているから、その以前ということでご勘弁をお願いいたします。

中日新聞は、東海四県、(愛知・岐阜・三重・静岡)北陸三県(福井・石川・富山)をカバーしている。

岡井隆さん死去・・92歳

 

戦後の短歌界をけん引した歌人岡井隆さんが十日午前零時二十六分、心不全のため死去した。

           繊細で感受性豊かな叙情歌で注目を集めた人。

     1984年2014年まで、中日新聞「けさのことば」を連載した。

         内科医でもあった。10日の朝刊、中日新聞から。

 

                     *

         人間には/行方不明の時間が必要です

                「茨木のり子集・言の葉・3」

 

 「三十分であれ 一時間であれ/ポワンと一人/なにものからも離れて」いる時間。

   「携帯」の「すぐに戻れ」や<今 どこ?>にしばられている時間ではない。

           「ふっと自分の存在を掻き消す時間」。

    「私は家に居てさえ/時々行方不明になる/ベルが鳴っても出ない」

               「今は居ないのです」

         「けさのことば」より。

                    *

      歳月はさぶしき乳を頒(わか)てども復(ま) 

          た春は来ぬ花をかかげて

                 隆の代表歌として知られる。

   「ぼんやりしていたら歌なんかできっこない」

    「偶然のチャンスをいかにつかむかが大事」

 「無から何かを生み出す創作は、リスキーな仕事です」

                 八十歳のときの言葉。

選は創作なり

       蝉時雨遠景あまりにもしづか

                   浅井一志

          「あまりにも」はない、言ってしまってはダメ。

             言ってしまったら余情余韻を奪う。

 

        蝉時雨耳健やかに静か聞く

                    bn

 

            迎へにも送りにも振り夏帽子

                    鷹羽狩行

             作者は俳句協会会長を長く務められた実力者。

             出来ているけど、実力者だけに物足りない。

昭和の終わりごろ、就職氷河期があった。

 

 

      今し雹の世佇立して人間

                    寺井谷子

            いましひょうのよ・ちょりつして・じんかん

                   (7・5・4)

             (今し・の“し”は。今を強める「し」)

   「雹の世」“雹”は、世の中のことを比喩的に使っている、雹の様な世の中。

            “人間“内容的に、「じんかん」と読みたい。

  人間が生活していく場としての、さまざまな人間関係・社会関係を総括している。

 

        羽抜鶏武者震ひして無職かな

                     bn

              角川平成俳壇・発表済み・寺井谷子撰

はんざき

   はんざきは手足幼きままに老ゆ
                  日原 傳
        「はんざき」馴染みのない言葉、俳句では季語。

 

出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』
日原 傳(ひはら つたえ、1959年(昭和34年)4月30日[1] - )は、日本の俳人・中国文学研究家。山梨県に生まれる。1979年(昭和54年)、東大学生俳句会に入会し、小佐田哲男、有馬朗人山口青邨の指導を仰ぐ。1984年(昭和59年)に東京大学文学部を卒業。1990年(平成2年)に有馬朗人主宰の「天為」の創刊に参加。1992年(平成4年)に同大学大学院人文科学研究科博士課程を単位修得後退学する。1999年(平成11年)に法政大学人間環境学助教授、2003年(平成15年)に同大学同学部教授に就任する。
2009年(平成21年)、句集『此君』で第32回俳人協会新人賞を受賞する。妻の明隅礼子も俳人

               朝隈礼子さん。
     角川平成俳壇の投稿者でもあったから、名前は知っていた。
            ご夫婦だとは知らなかった。

     山椒魚寂しき短肢動かしぬ
                  岡部六弥太