饒舌はいけない
峠見ゆ十一月のむなしさに
細見綾子―釈評・山本健吉
この句「句歌歳時記」に(健吉)私解がある。
「<十一月のむなしさに>と、大胆に言ってのけた。
理由のない心の空虚感。
それは雲一つない、小春日和の<太虚>に通じる。
澄みわたる青空に、一つの峠を鮮やかに浮かび上がらせる。
山でも峰でもなく、人の通う道がずっと続いている<峠>に、作者の心が通うのである」。
これ以上の贅語を要せぬが、この景気の句から、私はこの句の人肌ほどのぬくもり感 じ取ろうとして書いたのだった。
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この句は難解ではない、健吉の私解で難しくなってしまった。
「理由のない心の空虚感」理由はある。
「それは雲一つない」深読みし過ぎ、綾子は何処にもそんなこと言っていない。
「人の通う道がずっと続いている<峠>に、作者の心が通うのである」。
これも説得力がない。
「峠みゆ」だから五キロ、十キロと、遠くから見ているのだ。
近づけば近づくほど峠は見えなくなる。
作者は今までの来し方を振り返っていると同時に行方を思い描いている。
「峠みゆ」は作者の生き方の峠、若いころとの比較。
小六月でも小春日和でもない、十月でも、十二月でもいけない、十一月でなければだめ。