bnkosyouのブログ

表記された言葉の奥にあるもの//言い終えて何かあるか、俳句は詩、ということを忘れている人は多い

飯田龍太全集・第五巻・鑑賞Ⅰ 現代俳句鑑賞


            夏川を女は遠く渉りけり
                        山口  壽
「渉」は、かちわたるの意、(徒・かち「徒歩」)であるとするとこの句の趣はすこぶる艶を帯びて来る。
遊行の途上、思いもかけずめぐり遭った夏川の清冽な色までが、つれの女性のかちわたる姿態によって鮮やかに感じられよう。
「遠く渉りけり」の遠く、というところにこの句の躍動があるわけであり、それは単に、激しい流れ、深い淀みを怖れて遠く浅瀬を回った、というよりもむしろ、そうした自然の口実のもとに親しむ異性への若い女性らしい含羞がふくまれての行為と見る方が正しかろう。
遠きが故にかえってまざまざと艶なる素脚が見えようし、渉りつつふりかえって作者に送る明るい笑顔まで感ずる。
「女は」と強めた意図が、この場合の作者の気持ちを充分に映し出しているのである。
       (「俳句研究」昭和二十五年十一月~二十六年二月)
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         この句は龍太の解説がなければ鑑賞できなかった。
採りあげた年月は記されているけれど、作句の年月は記されていない、昭和の初め、とすれば、すこぶる艶を帯びて来る。
女は、羅だから当然ノーパンだ、水嵩は膝上十センチ、羅を巻くし揚げるとしたら膝上二十センチは揚げなければ濡れてしまう。
          男の近くでそんなこと出来るはずもない。
         『渉りつつふりかえって作者に送る明るい笑顔』 

            これは理解できない、龍太の勇み足。
        龍太の思い描いた風景と、僕の風景の違いでしょう。